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[作品内容]
作品十二葉
  (化粧ケース入・額一点付)
技 法 伝統手摺木版
版 数8版〜12版
摺度数11度〜20度
用 紙越前特漉奉書紙
絵寸法24.5cm x 17.5cm
額寸法43cm x 36cm
額 装桜材使用

雲山布マット特製額
彫 師松田俊藏
摺 師板倉秀継
原画所蔵松本幸四郎
企 画居原田画廊
制作創業安政年間
 東京
高橋工房
伝統手摺木版画
作品十二葉(化粧ケース入
・額一点付)
番号入り証紙(額裏貼付)
価格 280,000円
(税別、送料・梱包料込)





「十二枚の天狗の落し札」
          松本 幸四郎
 父、白鸚は絵が好きだった。いろいろ持っている中で、私が物ごころつくころとりわけ心惹かれたのが、「不動明王」と「裸婦」を描いた一点。あとでどちらも熊谷守一作と知った。父がなぜ熊谷作品に執心したのかは聞き漏らしたが、熊谷役者と言われた父が、まずはお名前に興味を持ち、次にその超然とした骨太な画風に魅了された案外そんなことかもしれない。
 私がこの「十二支」を手に入れたのは、十何年か前のことになる。軽井沢に行く度に寄っている追分の骨董店で、あるときこの作品に出遭った。絵を買うなどということは初めてだったが、思い切って(分割払いにしてもらって)買い求め、当時元気だった母に大喜びで見せると、例によって一刀両断。
「印刷でしょ?」
 とすましている。私がまさか熊谷作品の本物を手に入れたとは俄に信じがたかったのだ。
 その母も亡くなって、つい先ごろ、テレビ東京の「なんでも鑑定団」という番組から出演依頼を受けた折に、ふと「十二支」を出してみる気になった。作品が本物ということは勿論信じていたが、しかもきちんと折紙がつき、それが御縁で今回の手摺木版画という企画が生まれたことは望外の喜びだ。
 ところで熊谷守一91歳の著作『へたも絵のうち』の中で「絵なんてものは、でき上がったものは大概アホらしい。どんな価値があるのかと思います。しかし人は、その価値を信じようとする。かわいそうなものです」と、達観しておられる。生涯、大作は描かず、秋の展覧会シーズンには、ほかの画家たちの力作大作を尻目に、平気で小品を出品した。美術界ではそれを「天狗の落し札」と呼んだそうだが、私はその落し札を十二枚も持っている。幸せなことだと思う。
(歌舞伎俳優)


「モリカズの動物の絵」
          熊谷 榧
 守一の動物の絵というと、まず思い浮かべるのは猫だ。しかし残念ながら十二支に猫はいない。猫の自由気ままなところが好きで、犬はあまりにも人間に忠実すぎるところが気に入らなかったらしい。だから家で飼っていなかったこともあって、これはという犬の絵はない。
 虎は猫科なのだが、どうもうまくいかないらしい。龍は見たことがないものを描けない守一としてはまあまあの出来だ。蛇はよく描いていた。牛の絵は写生に行ったとき風景の中に描かれたものや、牛だけのいい絵がある。海浜の小羊の絵があるが、波の音にききほれてうまくいかなかったとか。
 それから馬の絵だが、若いときに馬を飼っていて、裸馬に立って乗ったというほど人馬一体ぞっこんほれこんでいた。しかし恋人の絵が描けないように、馬の油絵でいいものはない。スケッチはいいのだが。
 十二支の最初にある鼠は、美術学校を卒業して千駄木町あたりの下宿で昼夜逆のような一人住まいをしていたとき、出てきた鼠を餌つけしたことがあるとか。動物ではないが鶏は家で飼っていたこともあって何度も題材になっていて手なれたものだ。猪はこの十二支でははじめて見たのだが、ユーモラスな格好をしている。
 守一が九十七歳で亡くなってもう二十四年、請われて描いた十二支がこうして世に出るのも何かの因縁だろう。
(熊谷守一美術館主)


熊谷守一略年譜
明治13年 4月2日、岐阜県恵那郡付知村に岐阜市初代市長熊谷孫六郎の三男として生まれる。
明治30年
(17才)
岐阜中学3年で上京し、正則中学に転校する。このころから画家を志望したが、父の説得により慶応義塾進学の準備を続ける。
明治33年
(20才)
4月、東京美術学校西洋画科選科入学。
長原孝太郎、黒田清輝らの指導を受ける。
同期生に青木繁、和田三造、山下新太郎、児島虎次郎らがいた。
明治37年
(24才)
7月4日、東京美術学校選科を卒業する。
明治38年
(25才)
樺太調査隊に加わる(明治36年父死去)。
以後2年間北海の島々を廻り、各地の風光、地形の記録やスケッチなどをする。この時の作品は全て関東大震災で消失した。
明治42年
(29才)
第3回文展に「ローソク」を出品し、褒状を受ける。
明治43年
(30才)
実母の死を機に帰郷、以後6年間、裏木曽の山中生活を営む。この間ふた冬は付知の奥で日傭生活を送る。
大正4年
(35才)
才能を惜しむ友人の勧めによりやっと上京、再び制作に向かう。第2回二科展に「女」を出品、以後、第29回まで毎年2、3点ずつ出品する。
大正11年
(42才)
秀子夫人と結婚。
昭和7年
(52才)
現住所に自宅を新築して転居する。
昭和13年
(58才)
日動画廊で野間仁根と二人展を、藤田嗣治と野間仁根と日本画三人展を開く。また、名古屋丸善において、熊谷守一新作毛筆画展を開く。このころより再び日本画を書き始める。
昭和22年
(67才)
二紀会結成と同時に会員となる。
昭和39年
(84才)
5月、パリのダヴィット・エ・ガルニエ画廊主催で熊谷守一大個展が開かれ、好評を博す。帰国後、その作品を展観する。
昭和42年
(87才)
文化勲章受章者に内定したが、「これ以上人が来るようになっては困る」と辞退する。
昭和43年
(88才)
ギャラリー・ムカイで熊谷守一個展を開く。NHK「この人と語る」に出演。
昭和51年
(96才)
郷里の岐阜県恵那郡付知町に熊谷守一記念館が設立される。11月、洋画商展出品の「あげ羽蝶」が油絵の絶筆となる。
昭和52年
(97才)
6月末呼吸困難を訴え床につき、8月1日午前4時35分肺炎のため永眠。
昭和60年 守一が四十数年住んだ池袋・千早に熊谷守一美術館が出来る。

藤森 武 撮影